ヴォイジャー・コラム

ヴォイジャーや艦長について、私なりにマジメに考えたことを綴っています。
深読み、見当違い、いろいろ取り揃えてます(苦笑)。

 

「最終回に向けて」 

★長旅の果てに待つもの (2005.8.17)

 DVD全シーズンを入手し、視聴中の地上波もラスト・シーズンに入った。既に見てしまった第7シーズンのエピソードもあるが、基本的に地上波を追い越さないようにセーブしている。また、最終回は必ず170話まで見てから見ることに決めている。しかし、残念なことに私はヴォイジャーの結末を知っている。エピソードガイドを読んでしまったのだ。知識の無い頃に読んだので、その時は帰還できたかどうかしか記憶には残らなかったが、それ以後もネタバレの地雷を何度も踏んでしまい、最終回でもう一つ視聴者を大きく驚かせたネタも知ってしまった。

 知ってしまったものは仕方がない。しかし結末を知って見ていると、ふと疑問を持った。1シーズンを残すだけとなった今、それは非常に大きな疑問となった。本国の放送はもちろん、日本初放映も知らない遅れてきたファンなので、最終回のスポイラーが立った時の騒ぎも、放映時の賛否両論入り乱れての喧騒も知らないし、知るすべもない。本編を見て自分で結論を出すしかないのだが・・・。

 6年分の旅を見てきて、自分なりにキャラクターの人柄を理解してきたつもりだ。特に艦長は、当初否定的に感じていたのが、1シーズンも見ないうちにその強烈な人柄に魅せられてしまった。今ではヴォイジャーを見るのではなく、艦長を見ていると言えるほどのマニアになった。彼女の統率力、読みの深さ、強さなど良い点は、私には欠けているものなので憧れる。そんな彼女にも欠点や短所があり、完全無欠な艦長ではないところにも、強く魅かれる。

 クルーの安全を守り、必ず故郷へ連れて帰る。彼女が背負った責任の重さは、時に彼女を押しつぶしそうな重圧となって、目の前に立ちふさがる。しかし辛いことや悲しいことがあっても、常に艦長であることを忘れない。帰還の旅の支えだった恋人を失った時も、落ち込む心を隠し艦長の役目は怠らなかった。全滅の危機にさらされながらの戦い、裏切りやクルーの死、アルファ宇宙域にいるなら、一生かかっても経験できないような、強烈な体験をし続けた艦長。強く、逞しく、したたかで、それでいてクルーの母のような存在でもある。「クアラ」で愛する人と供に暮らす幸せを知った時も、かりそめの幸せより、重荷を背負い続ける人生でも、本物の自分の人生を笑って選んだ艦長。

 そんな艦長が、どうして過酷でも有意義だった7年間の旅を、根底から否定する決断をしたのだろうか。この先の描かれざる長い歳月の何が、常に前向きに努力すること、失敗から身をもって学ぶことが身上の艦長を変えてしまったのか。彼女を理解するにつれ、この疑問は大きくなるばかりだった。本編での艦長の描かれ方に、疑問や違和感を持ったこともあった。納得できないエピもあった。しかし「EQUINOX」と「PRAY」のほかはこんなことも時にはあるさと、無理にでも納得してきた。それでも最終回の「提督」の決意が、私には納得できない。

★銀河の彼方、大人の関係の結末

 もう一つの疑問は艦長と副長のいわゆる「大人の関係」の結末だ。私はこのサイトのそこかしこで、艦長マニアだがJ/Cではないと言ってきた。もちろん2人がいちゃいちゃくっ付いてたり、後のことは勝手に想像してくれと言わんばかりのアダルトな雰囲気のディナーシーンを見るのは好きだ。ライトを落としてくつろいでるところなど、それがピロートークでも違和感は無いとさえ思う。それでは2人は「恋人」なのかと問われると、NOとしかいえない。

 その前に2人が「越えていない壁」が何なのかという問題がある。一般的にはフィジカルな関係を指すのだろうが。「映像化されたものが正史」が建前のスタトレで、描写はなくても公認の恋人同士のトム&ベラナの例もあるが、手を握る以上の表現が一切無い2人の間の壁が何なのか、こればかりは想像するしかない。ただ何度も出てくるディナーシーンで、2人は必ず制服を着ている。プライベートディナーで私服になっている描写がトム&ベラナ、艦長ともにあった。しかし副長を迎える艦長は、上着を脱いでいることはあっても制服姿だ。これも境界線の一つだと言えないか。

 ヤボな詮索はここらでやめるが、2人の仲がどこまで進んでいようと、お似合いであることは間違いない。作戦室、ブリッジ、通路、艦内のいたる所で見られる2人のケミストリーの良さ。時に対立しても、根底の信頼は崩れない。それでも恋人=NOと思うのは、艦長が常に艦長であることを忘れないことと、早い時期に2人の結末を知って、副長の人物像を小さく、有体に言えば彼は艦長にふさわしくないと見てしまったからだ(ただし第6シーズンまで見てきて、彼の人物像を上方に向けかなり修正したことは付け加えておこう)。

 「怒れる戦士」に託された愛の告白に涙をこぼし、瀕死の艦長を蘇生できず泣きながら抱きしめた副長を目撃し、決死のミッションに出る前に、誰を憚ることなく手を握り別れを惜しんだこともあった。2人の間にあるものが、信頼と友情だけではなく、愛情があるのは間違いない。それを内に秘め、艦長としての立場を堅持するキャスリンを、副長は尊重している。愛と信頼と尊敬。私は2人の「大人の関係」を、そのように考えていた。物理的な結びつきよりも心の結びつきを大切にする2人。幸か不幸か時間はたっぷりある。

 しかし副長は最後の最後で、親子ほど年の違う女性に走った。精神的には思春期をようやく脱したくらいの女性に。確かに彼女は順調に成長している。真面目で素直で、セスカのように裏切ったり、利用するなんてことはまずない。ビジュアルも申し分ない。普通なら祝福するところだが、彼のこの行動が大きな疑問なのだ。

 頑固で勝ち気で、男より雄々しく、いつも前向きな艦長。欠点はあっても、それを補って余りある魅力、人間としての器の大きさ。これほどの人がすぐそばにいながら、人の心の機微も判らない、陰影も無いストレートで子供みたいな女性を、副長が恋人に選んだ理由が判らない。「恋は思案の外」と言うが、そんな月並みな表現で片付けたくない。私は艦長マニアだから、副長の心変わりに納得できないだけかもしれない。しかしこれまでの副長を見ていると、最後でどこか掛け違ったのではないかと思えてならない。

 いずれにしても何が艦長を変えたのか。何が副長を変えたのか。あと半年、その答えが出ることを祈りつつ、残り少ないヴォイジャーの旅を見守っていこうと思う。そして全てを見終えたら、改めて感想を記すことにする。

 

 

「ジョー・メノスキー氏について」

★脚本家の本音の行方 (2005.7.25)

 第2シーズンの「悪夢の世界」で初めて脚本家としてクレジットされたジョー・メノスキー氏。第6、第7シーズンクリフハンガー「聖域ユニマトリックス・ゼロ」を最後にヴォイジャーを降りるまでに、大作2パーター9作のうち、7作をブラノン・ブラガ氏と2人で書いている。特撮やCGがすごかったり、人気が高いものが多い。1時間モノにもヴォイジャーで1、2を争う人気作がある。しかし私はいくつかを除いて、それほど好きではない。なぜなら「艦長はそんな人じゃない」と思うシーンが多すぎる。

 艦長は戦いを好み、艦を大破させたあげく特攻するような人じゃない。ボーグ相手でも、火事場泥棒みたいなマネなどしない。怒りに我を忘れて暴走し、艦隊士官としての矜持を忘れたりはしない。艦長マニアのひいき目もあるだろうが、これらのエピを見ると、彼らが艦長のキャラを壊しているとしか思えない。他の人の脚本では、今まで通りの艦長が見られるので、長らく私の中でブラガ氏とメノスキー氏はダントツのワースト・ライターだった。

 しかし2人の単独作品を見てみると、内容は対照的と言っていいくらい違う。ブラガ氏はキャラの内面に踏み込んだり、心の機微を書くことは殆どなく、未知の現象や科学的な事象に重きを置いたものを書く。一方メノスキー氏は科学技術だけではなく、ひどい時はストーリーそのものも穴だらけで、訳がわからなかったりもするが、艦長も含めクルーの心情には共感することが多い。スタトレの製作事情は知らないし、1人の脚本家がドラマ1本を書きたいように書けるわけでもないと思うが、2人の違いには驚く他はない。

 ワースト・ライターと思っていたメノスキー氏の評価を変えたのは、DVDで何度も見るエピ、つまり艦長マニアの心をくすぐる話しに、彼の単独作品が多かったからだ。憧れのレオナルド・ダ・ヴィンチと空を飛んで見せた少女のような笑顔。ご先祖様の姿に託して、愛ある生活を送る幸せな艦長を見せてくれたこともあった。マニア目線丸出しで言うなら、彼の書いたエピでの艦長は、どれも非常にお美しい。何よりも彼は「ケスとの別れ」を書いた人なのだ。

 かつてダ・ヴィンチに「権力者の影響を受けずに生きては行けない」と言わせたメノスキー氏。「ヴォイジャーの神々」でヴォイジャークルーを描いた劇中劇を演じる異星人のセリフに、脚本家としての良心を紛れ込ませ、しかし一見地味なエピに仕上げた。ストーリーを際立たせるために、キャラ設定を改悪したこと、最後には復活するとはいえ一度ならずキャラを殺したこと。思い入れを持って見ている人には、決して愉快ではない場面を書いたのは本意ではないのだと、彼の単独作品の最後となったエピで言っておきたかったのかもしれない。

 メノスキー氏のエピで目立つのに、艦長と副長の仲の良さがある。彼は艦長の「ロマンス」を書きたかったのではないだろうか。行きずりの異星人との束の間の恋ではなく、継続的な恋愛。となればお相手は副長しかいないわけで、単独、共作に関わらず彼の書いたエピで艦長と副長の間には、「既成事実」があるとしか思えないような描写が随所にある。映像にあるものだけを正史とするスタトレ界で、最後まで具体的に語られなかった2人の真の関係は霧の中だが、だからこそ彼は自分の書くエピに、2人のロマンスの成就を仄めかすシーンを何度も入れて、視聴者にそれがデフォルトなのだと思わせようとしたのだと思う。

 お互いに憎からず思ってる2人がくっ付かなかったのは、いわゆる「大人の事情」のせいだが、事情の一部にはメノスキー氏の降板があるのかもしれない。それはともかく、J/Cではない私が見ても時に「副長もう一押し!」と言いたくなるのは、やはりそれだけ2人の関係が不自然なのだろう。その不自然さを強いるのが、艦長が背負った7万光年の旅なのだと思うと、メノスキー氏には恋愛に限らず「幸せな艦長」をもっと書いて貰いたかった。

 

 

「生命体8472」

★副長と初めての対立 (2005.6.15)

 ヴォイジャーの旅のエポック・メイキングは、このエピソードだったのではないかと思う。ケイゾンやヴィディアなどのために、全滅の危機に瀕したこともあったが、ボーグ・スペースへ踏みこむことのリスクはそれらの比ではない。そこへ進むだけではなく、悪魔と手を組む奇策を実行し、地球帰還に血路を開いた。艦長のこの決断がヴォイジャーの旅物語の行方を大きく変えたことは間違いない。

 そしてもう一つ。このエピは艦長と副長にとっても、エポックとなったと思う。ボーグとの対決を前にナーヴァスになる艦長を励ました副長。2人のリレーションシップを語る上で欠かせない、作戦室のシーンで艦長が言った「もうあなたなしでは、やって行けない」の真意を、彼は理解したのだろうか。初期シーズンでは時に気弱な表情を見せることもあったが、苦しい戦いを切り抜け故郷を目指した3年間で、艦長は誰よりも強くなった。しかしヴォイジャー存亡の危機を前に、全てを1人で背負うには、艦長の肩は余りに細すぎる。重圧に喘ぐ艦長が(彼女は決して認めないだろうが)、艦長の立場で初めて背負った重荷を少しでも支えて欲しいと言ったのだ。

 第6シーズン中盤まで見てきたが、艦長が「艦長の責任」を一緒に担って欲しいと言ったのは、ここだけではないだろうか?。独断専行も言い換えれば、決断する人が艦長しかいないためだ。いずれにせよ艦長が迷う心の内を明かしたのは、副長やトゥヴォックではなく、ホログラムのレオナルド・ダ・ヴィンチだった。この時点で艦長が1人で追い詰められていることが解る。

 故郷へ帰る道を自ら閉ざすか、帰還のために「悪魔」と取り引きをするか。究極の選択。艦長が出した答えは「故郷へ帰る」。だから必要なのは「帰るため」の手立て。しかし副長が考えたのは「生きるため」の策だった。生き残るのなら、デルタ宇宙域に留まることも止むを得ない。必ずクルーを故郷に帰すという責任を、副長は負ってはいない。この違いを知った艦長のショックは大きかっただろう。互いに信頼し、愛情もあり(男女の愛か友愛かは別にしても)、ヴォイジャーを導くパートナーとして最上の存在である副長が、自分と違う方向を向いている。

 重症を負い意識を落とされる前に「クルーを必ず故郷に連れて帰って」と、まるで遺言のような言葉を言った艦長、彼女の心には常にそれしかない。だが副長は答えなかった。造反を決意した彼が医療室に来た時、何故か艦長は服を着ていない。24世紀にはほとんどの治療は服を脱がずにできるのに。それは彼が艦長を「キャスリン」と呼べるただ1人の人で、ヌード(とは言えないが)で意識の無い状態でもそばにいることができるほど親しく、また信頼し合ってることを暗示している。その彼との決定的な「違い」。こんな形で顕著になるとは、ボーグと戦うどころかヴォイジャー始まっての大危機。「時空侵略戦争」や「イクワノックス」での対立と、ここでの対立は意味が全く違うと思う。

 全てが終わりダ・ヴィンチの工房で話す艦長と副長。それぞれの信念に基づいた行動だから互いに尊重はする。一応は和解したわけだが、最後まで艦長は副長に触れなかった。ホロデッキから出て行くときも微妙な距離があった。この強烈なエピで艦長は、肩にかかる大きすぎる使命と責任を、副長は支えてくれないとハッキリ認識したのだ。強気で強情な艦長がただ一度だけ伸ばした手に、副長は背を向けたのだから。

 ここで艦長は決断を下すのも、その責任を負うのも、ヴォイジャーでは自分1人しかいないのだと、思い定めたのだと思う。2人の良好なパートナーシップはこの後も続くし、思わせぶりなシーンがこれからもないわけではない。しかしこれ以後の艦長は、艦長と副長の立場を離れた関係を彼に求めなくなったと思う。信頼や愛情の有無に関係なく。

 

 

「艦長の恋愛」

★艦内恋愛は許されるのか? (2005.6.15)

 「愛しのフェア・ヘブン」でホロキャラと恋愛関係になった艦長に、ドクターは「艦長は部下とは関係を持てない」と言った。第2シーズンの「繁殖期エロジウム」では艦長も「立場上許されない」と言っている。まだ見ていないが第7シーズンのエピソードでも、いわゆる「艦隊プロトコル」を理由に涙の別れをしているらしい。

 「フェア・ヘブン」でホログラムに恋した艦長を演じたケイトさんは「ありえない」と言っている。現実主義の科学士官上がりの艦長が、光子とフォースフィールドでできた人物にハマるとは、正直なところ私も思わない。しかし艦長の癒されない孤独が、一見コメディのようなこのエピのそこかしこに透けて見えた。故郷へ帰る長旅を支える心の拠り所だったマークを失った辛さ、艦長として片時も逃れられない責任。艦長が艦長であることから離れ、1人の女性として充実した私生活を送る。ヴォイジャー内でできるのだろうか。

 TNGでピカード艦長がクルーの1人と恋愛したエピソードがある。見てはいないのだが、ファクトファイルのあらすじを読んだ。「エンタープライズに赴任してきた科学士官に心引かれたピカード艦長。彼はクルーとの恋愛で、自分の客観性が失われないか心配したが、恋する気持ちにはあらがえない。ある日、上陸任務に出た彼女が嵐のため帰還できなくなった。安否を非常に心配した彼は、無事に戻った彼女を二度と危険な目に合わせたくないと思った。お互い任務に専念するために彼女は艦を降りた」。恋愛関係を続けるための下艦ではないようだが、名指揮官と言われるピカード艦長でも艦内恋愛には消極的だった。

 「艦長の恋愛」はこの例しか知らないから、結論を出すにはデータ不足だと思うが、孤立無援で途中下車はほぼ不可能で、配置転換も望めないヴォイジャーの特殊性を考えると、艦長言うところの「艦隊プロトコル」は止むを得ないのかもしれない。艦隊は基本的にクルーの私生活にはノータッチだから、交際自体に問題は無いとしても。艦長は仕事とプライベートの区別はできるだろうが、そもそもその区別が曖昧で、艦全体が家族同然で秘密が保てないとなれば、敢えて火中の栗を拾わないのは頷ける。

 「これは命令よ」の一言で有無を言わさず従わせるには、リーダーとして絶大なる信頼と尊敬を得ていることが必須だ。まして艦長の決断でヴォイジャーは7万光年の彼方に取り残されたのだし、連邦に楯突く反乱分子を部下にして艦をまとめるのは並大抵ではなかっただろう。幸か不幸か連邦とマキがギクシャクしていた頃は、艦長にはまだマークの存在があったわけで、よそ見しなかったのだが。

 名もなき下っ端クルーならともかく、どう見てもお似合いの副長にも一線を画しているので、余計に艦長が頑なにプロトコルを守ってるように思えるのだが、自分の統率力にマイナスとなることは避けようと考えたからではないか?。トップ2人が恋愛関係になることのデメリットは皆無ではないと思う。無謀で向こう見ずな艦長も、クルーをまとめ旅を続けることについては細心の注意をしている。艦長の求心力が減退すれば、ヴォイジャーの秩序は維持できない。それを恐れるが故のプロトコルなのだと思う。結局は自分の幸せより艦長としての責任を優先しているわけだ。

 アメリカの「救急医療ドラマ」によくある、まるでコップの中の嵐のような、ドクターたちの仲間内の恋愛模様を見ていると、艦長+副長のストイックな大人の関係が潔いような、物足りないような・・・。もっとも副長は艦長のストライクゾーン、外角ギリギリ入ってるかどうか、かなり際どい位置にいると思うので、無理して気持ちを押さえてるのではないと思ってはいるのだが。 

 

 


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